『ヴォイド・シェイパ』

(前回の感想(『天帝のはしたなき果実』)で、最新作・『天帝のあまかける墓姫』の発売日を勘違いしておりまして、その他諸々もあわせて修正しました。すいません!)
今週末、12月16日は、第46回衆議院議員選挙(ならびに第18回東京都知事選挙)の投票日ということで、文字通り、政治家の先生方も走り回る師走ですが。
そんな年の瀬に、今年読もうと思ってて読みそびれていた作品を、なんとか少しでも片付けてしまおうという、歳末在庫一掃特別企画(笑)・その2。
第1回メフィスト賞受賞の『すべてがFになる』や、アニメ化もされた『スカイ・クロラ』などで知られる、森博嗣(もり・ひろし)先生の、去年、2011年4月発行の作品。
新作シリーズの1作目となる本作は、すでに電子書籍化もされていて、今年、2012年4月には、待望の2作目・『ブラッド・スクーパ』も発売されています。
それでは以下、その『ヴォイド・シェイパ』シリーズ第1作・『ヴォイド・シェイパ』の感想です。


(残りの21行、ネタバレあり)

カガン:「此奴も不満はないだろう。一生を全うしたのだ。多少の長い短いはあれ、生きたことには変わりない」
ゼン:「そういうものでしょうか」
カガン:「わからんなあ。どういうものかの。しかし、そのときどきで、都合の良いように思う以外にあるまい」

子供の頃から剣の達人のもとで育てられてきた主人公が、師の言いつけに従って、強さを求めて旅に出るお話。
物心つく前から山に篭もって剣の修行をしてきた彼は、世間をなにも知らない若者ではありますが。
剣術とは刀の使い方だけではなく、刀を持つ者の行動のすべてであり、最も重要なことは考え方であると教えられてきた彼は、世界を新鮮な目で捉えていきます。
「なにごとも、一方ではない。動く方と動かない方、送る方と受ける方、両者があって成り立っている。片方だけに囚われると、見誤ることになる」
「仏像というのは、仏様ではありません。これは単なる人形です。ただ、拝む人の心には、これが仏に映るのです」
「生きていることに価値があり、死ねば価値が消えてなくなる、という考えに囚われておる」「わしが言うのは、そういう価値というものはそもそもない、ということだわ」
主人公が行く先々で出会う、それぞれの道の達人たちによるそうした言葉も、彼に大きな影響を与えます。

カシュウ:「おそらくは、このように強さを求めること、強さとは何かと問い続けること、そういう日々のうちに、強さというものが火のようにぽっと現れる。」

カシュウ:「だが、少しでも風が吹けばまた消えてしまう。いつも焚きつけて、世話をしていないと、燻っているだけ、そのうち消えてしまう。」

少しずつでも前進しているはずなのに、やればやるほどわからないことが増え、迷い、自分は無に等しいということをただ思い知らされる毎日。
勝たなければ、生きられないから、必死で考えるものの、風前の灯火のような気力だけで、剣を構えているのであって、いつだってぎりぎりな状態。
相手を倒すことは、己が生きるためだと思い出し、繰り返し、自分に言い聞かせるけれど、そこには真も偽もなく、あるのは生と死、どちらを選ぶかという問題だけ。
結局は、すべてが無になり、なにも変わらない、無駄の繰り返しのような人生において、強くなりたい・強く生きたいと願う主人公に、ある時しかし、閃きが訪れます。
風や火も、そういう名のものは実はない。ただ、感じられるだけ。人は、無を感じることができる。ないと知ることができる――。

オーミ:「さあ、旅をされるがよろしい。刀や人が、この世にどれだけありますか? ご覧なさい、微々たるものではありませんか。」

オーミ:「この世にあるのは、土、風、草、樹……。小さいものを見ず、もっと広く、遠いものをご覧なさいませ」

もともと人にはなにもない、あるように見えるだけのこと、という思いに至った主人公ですが、物語的には、彼の“生まれ”、血筋が波乱を呼びそうな予感。
すでに発売中のシリーズ第2作・『ブラッド・スクーパ』で完結というわけではなさそう(?)ですし、ストーリー的にもテーマ的にも続きが気になります。