『仏果を得ず』『あやつられ文楽鑑賞』

直木賞受賞の『まほろ駅前多田便利軒』や、本屋大賞受賞の『舟を編む』などで知られる、三浦しをん(みうら・しをん)先生の、2007年(文庫版は2011年)発行の作品。
三浦先生と言えば、ちょっと変わった職業のひとたちを描いた小説と、妄想炸裂の爆笑エッセイとが、どちらも印象的だったりするのですが。
文楽人形浄瑠璃)を題材とした、この『仏果を得ず』と『あやつられ文楽鑑賞』は、まさにそうした、対となるような小説とエッセイになっています。


(残りの23行、ネタバレあり)

  • 『仏果を得ず』

鷺澤兎一郎:「樋口に感情移入するなど、現代人にはまず不可能だ」

鷺澤兎一郎:「感情移入は、演じるうえでの絶対条件じゃない。樋口も源太も、ああいうやつなんだ。彼らは、舞台のうえで生きている。俺たちはそれを表現する。ただそれだけだ」

文楽に魅せられ、その道に進んだ主人公が、壁にぶち当たったり、恋に悩みながらも、芸の道を突き進んでいくお話。
文楽というのは、人形浄瑠璃ともいうように、要するに人形劇の一種で、江戸時代からつづく、300年もの歴史ある伝統芸能なわけですが。
文楽の世界で活躍中のひとのうち、代々、文楽の家の生まれというひとは、いまやその半分ほどで、あとの半分は、文楽の研修所出身のひとたちなのだそうで。
この物語の主人公も、高校の修学旅行で文楽を見て、その迫力に圧倒され、実力と才能だけが物を言う、そんな文楽の世界に飛び込んだひとりなのですが。
文楽は、舞台のうえでもかなり体力を消耗する芸能みたいで、そのうえ、公演で全国各地を飛び回る生活はけっこう大変そう。
そんななか、主人公は、ある女性に恋をして、文楽か恋かという選択を迫られますが……。
師匠や同僚、友人など、周囲の個性的な人々との掛け合いも楽しい、伝統芸能に打ち込むひとりの青年の、恋と成長を描いた青春小説。

俺が語る声も、兎一兄さんの三味線も、人形を遣う十吾の息づかいも、客席からの熱気も、すべてが勘平という架空の人物のための糧にすぎない。

これが劇だ。時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所へ導く、これが劇の力だ。

  • 『あやつられ文楽鑑賞』

人形は器だ。器である人形には、後付けの「動機」なんかないのである。大夫、三味線、人形さんに、言葉と音楽と動きを与えられ、その一瞬一瞬を生きるだけだ。

人間だったら、前後の感情のつながりを考えながら演じなければならないが、人形は「時間の呪縛」から自由だ。感情や言葉から解放されている人形は、余分なものを削ぎ落とし、「殺人の瞬間」すらもただ生きる。

こちらは同じくその文楽を扱ったエッセイ。文楽に関する基礎知識や取材記録、体験記的な内容で、全体としては、愉快な文章で綴られた、やさしい文楽入門といった感じ。
『仏果を得ず』は文楽の知識がなくても楽しめるつくりになっていますが、この『あやつられ文楽鑑賞』で文楽の演目や奥深さを予習しておくと、より楽しめる気がします。
どちらを先に読むか、後に読むか。いずれにしても両作品とも、三浦先生の文楽への愛と知識が伝わってきますし、各演目についての解説も面白いです。

人間のドラマを描き、それを見るものに伝えたいなら、立場の異なるもの同士が切磋琢磨しあって、人形という器に命を注ぎこむのがいい。

その劇形態こそが、人間という生き物のありかたそのものを象徴しているからだ。

自分も以前一度、生で文楽を見る機会があって、その時はその時で興味深く観劇しましたが、見に行く前にこの2冊を読んでいれば、またずいぶん印象が違った気がします。
折から、大阪・日本橋にあります国立文楽劇場では、7月21日から8月7日までの日程で、夏休み文楽特別公演が行われています。
公演の内容や空席情報など、詳しくは、独立行政法人 日本芸術文化振興会公式サイトの、国立文楽劇場ホームページまでぜひどうぞ。