『涼宮ハルヒの消失』

ようやく見てきました。劇場版。
評判通り、長門の魅力いっぱいの、とても良い作品でした。
そして、この「涼宮ハルヒ」シリーズにとっても、すごく重要なエピソードだったと思います。
以下、劇場版『涼宮ハルヒの消失』と、原作小説第4巻『涼宮ハルヒの消失』についての感想です。


(残りの24行、ネタバレあり)

朝倉涼子:「でもね、目が開いているだけでは覚醒してるってことにはならないのよ。目に映るものをしっかり把握して、それで初めて理解の助けになるの」

(引用はすべて、原作小説からです。)
このタイトル、何気にミスリードを狙ってますよね?
自分はてっきり、涼宮ハルヒ本人が消失、つまり、涼宮ハルヒの存在自体が、この世界から消失するんだとばかり思ってました。すっかり騙されてました(笑)。
さて、劇場版のストーリー、と言うか、構成は、ホワイトクリスマスにまつわる違いを除けば、ほぼ原作通り・かなり原作に忠実な作りでした。自分の記憶の限りでは。
その点では、テレビシリーズ第1期を見た後に、原作小説第1巻『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだときと同じ感想です。
原作自体がすばらしいのは前提として。それと矛盾も競合もすることなく、映像作品として、プラスアルファのディテールを積み上げているのは本当にすごいなあ、と。
作画的には、劇場版ならではのクオリティにグレードアップはしてましたが。超絶アクションとか、手の込んだCGとかは、特になく。
そうしたところも、テレビシリーズと同じ印象でした。ただし劇場版は、2時間40分以上、ぶっ通しですけどね(笑)。
で、内容については、何と言ってもまず、長門かわいいよ長門(笑)。長門がいじらしくて、切ないです。
「いつもは無表情なのにしょうもないジョークに不意に笑ってしまった後に赤くなるような、時間をかけて少しずつ心を開いていくような、そんな」長門。
もう別に、元の世界に戻らなくても・戻さなくてもいいんじゃないのと、普通に思ってしまったんですが(笑)。
ハルヒをはじめとする他の登場人物たちも、変な秘密のプロフィールは失って、高校入学初期の状態に戻ってはいるものの。性格までは変化していないみたいですし。
単なる仲良しグループとしてのSOS団なら、修復可能なところにまで、どうにかこうにか持ってこれましたし。
まことに常識的な、こういう普通の世界・幸せというのは、是非はともかく、一つの落としどころではありますし。思春期の少年少女の物語としては。
でも、主人公は、そういった別の日常を放棄したわけです。
そういうのは、作中の“喩え”に出てくる、自分自身の意思の介在しない“幸福”だということなのか。
あるいは、“プログラム起動条件”である“鍵”が、まだそろっていないということなのか。
ともかく、「心ならずも面倒事に巻き込まれることになる一般人、ハルヒの持ってくる無理難題にイヤイヤながら奮闘する高校生」から。
SOS団の他のメンツと同じく、」「この世界を積極的に守る側に回ってしまった」。この“時間平面”を維持していくことを選んだ、わけですが。
じゃあ一方で、ヒロインであるハルヒは、果たして本当にいつまでも、「無意識ハッピー大暴走」でいられるのかどうか。
もしいられないのであれば、その時いったい、ハルヒは、そして主人公は、何を守りたいと思い、そして何を選ぶんでしょうか。
原作小説の話題としては、今月30日発売の『ザ・スニーカー 2010年06月号』に、第10巻『涼宮ハルヒの驚愕』の内容が一部先行掲載されるようですが。
アニメやその他のメディアミックス作品を含めて、「涼宮ハルヒ」シリーズからは、今後ますます目が離せません。