『空白を満たしなさい』『私とは何か』

芥川賞受賞の『日蝕』や、『葬送』『決壊』などで知られる、平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)先生の作品。
『空白を満たしなさい』の方は、週刊コミック誌『モーニング』で、2011年9月から、1年間にわたり連載されていた小説で、単行本は2012年11月刊行。
そして『私とは何か』(『私とは何か――「個人」から「分人」へ』)の方は、2012年9月刊行の新書です。


(残りの20行、ネタバレあり)

「あなたのその幸せで、忍び寄る死の恐怖や生きること自体の緊張を、本当に克服できますか? 誰よりもあなた自身が、そんなこと、信じちゃいないんですよ。だから虚しい。――図星でしょう?」

一度死んだはずの人間が、何事も無かったかのように、生前の姿で生き返り始めた世界で、自身も生き返った者である主人公が、自らの死の謎を追いかけていくお話。
主人公は、生き返ったことで、ただ単にめでたしめでたしでは済まない、様々な困難に見舞われますが。そもそも彼自身、どうして自分が死んだのか分かりません。
大事な妻と子供がいて、仕事だってうまくいって、確かに幸福だったはずなのに。なぜか自殺とされている、死ぬ直前の記憶の空白に、主人公は少しずつ近づいていきます。

その瞬間に自分を襲った、眩しいほどの不可抗力。自分が完全に無力となり、だからこそ、完全に免罪されるような圧倒的なその空白。

――本当に仕方なかったのだろうか? 自分でない他の人間だったなら、それに耐えられたのではなかったか?

さてここで、『私とは何か――「個人」から「分人」へ』の方について。こちらはタイトル通り、「個人」から「分人」へと、人間の基本単位を考え直す著作です。
『空白を満たしなさい』の作中で、その「分人」という概念が出てきて、もちろん一通りの説明はあるのですが。より詳しく知りたくて、『私とは何か』も読んでみました。
それによると、「私」という人間は、対人関係ごとの様々な自分・「分人」によって構成されている、複数の「分人」の集合体であるとのこと。
そして、一人の人間は、複数の「分人」のネットワークであり、そこには、「本当の自分」という中心・たった一つの「本当の自分」など存在しないのだと。
現実には、平野先生自身も言及されているように、遺伝要因の影響や、「分人」同士の混ざり合いもあって、そんなにきれいに割り切れるものでもないのでしょうが。
そもそもこういった“モデル化”というものは、言ってみればある意味、“たとえ話”であって、そこに気をつけておくと、より有用なのではないかと思います。
これ以上の詳細は、実際に本書を読んでもらうのが一番ですが。自分が特に印象的だったのは、「分人」が、他者との相互作用の中で、段階的に形成されてゆくところ。
つまり、「分人」というものが、関係性やネットワーク性を強調した、動的なものであるように思えたのです。

私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。

それでは話を戻して、『空白を満たしなさい』について。苦しい思いの末、ようやく真相にたどり着き、再出発しようとする主人公を、再び試練が襲います。
世界各地で生き返った人々が、今度は逆に、次々と消え始める中、主人公は消滅・無になる恐怖と戦いながら、とにかくやるべきことをやるしかないと、行動を開始します。

「それで、――いつか璃久が十分に大人になって、真相に耐えられるようになった時には、伝えてほしい。自分でその缶を開けて、『空白を満たしなさい』と。」

「分人」という新しい考え方を導入して、ミステリー仕立てのストーリーを通し、現代の生と死、そして幸福の意味を問う物語。
作者の平野先生自身、主人公と同じく、1歳の頃に当時36歳のお父さんを亡くされているそうで、平野先生の作家性に迫るといった意味でも、興味深い作品でした。