『言壺』

アニメ化もされた『戦闘妖精・雪風』シリーズや『敵は海賊』シリーズなどで知られる、神林長平(かんばやし・ちょうへい)先生の、第16回日本SF大賞受賞作。
神林長平先生と言えば、先月、3月9日に、『いま集合的無意識を、』が刊行されたばかりですし。
また先々週、3月23日には、神林先生原作の、東城和実先生によるコミック・『完璧な涙』第2巻(完結篇)が出たばかりですが。
明後日、4月6日には、傑作アンソロジー・『神林長平トリビュート』が、文庫化されて刊行予定となっています。
こちらは、虚淵玄先生、円城塔先生、桜坂洋先生、辻村深月先生、元長柾木先生ほか、新世代の人気作家8人がまさに豪華競演を果たした、神林SFアンソロジーです。
それでは話を戻して、以下、2011年6月発行の、ハヤカワ文庫版『言壺』の感想です。


(残りの28行、ネタバレあり)

小説を創るというのは、想いを言語化すればこういうことかと再認識し、発見することだ。

というよりも、元来言葉にならないものなのだから、それを言語化するというのは矛盾であって、完全な言語化は不可能なのだ。真実があるとすれば、書くという行為、そのものにある、という説もあるが、なるほど、と思う。

カバー裏表紙の内容紹介に、「9篇の連作集にして、神林言語SFの極北。」とありますが。
最後の、9つ目の作品・『碑文』は、たった1文、句読点を含めてもたった6字の作品(!)なので、それはちょっとおいときまして。
そのほかの作品はいずれもそれぞれ、スランプ中の売れない作家(もしくは作家を思わせる人物)が登場します。
そして彼らはいずれも、「ワーカム」と呼ばれる、「万能著述支援用マシン」(もしくはその類の装置)を使って、作品を生み出しています。
まず1つ目の作品・『綺文』は、「私を生んだのは姉だった。」で始まる、意味の通らない文章を、ワーカムに徹底的に入力拒否された主人公は……、というお話。
「そのつもりはなくても、言葉をつらねているうちに本当だと思えてくることもある。いや、常に、そうなんだ。言葉が現実を構築していくんだ。ルールに従って、だ。」
2つ目の作品・『似負文』は、ある日突然、謎の男たちに連れ去られた主人公が、彼でなければ出来ないだろう、ある依頼を受けるお話。
だから、その一語の先はなにもない。空白だ。しかし読み手はイメージが膨らんでゆくのを感じている。もはや言葉ではない。脳のイメージ駆動装置が、自身の意識とは独立して自走する……
3つ目の作品・『被援文』は、ワーカムで仕事をするようになってから、世界観がすっかり変わってしまったという、作家のお話。
ワーカムは、出来のよくないVRが映像や音を人の脳に入力するよりも、もっと強力かつ確実に人に仮想世界を与えることができる。個人的な幻想を、しかもニューロネットワークで社会的な幻想空間に違和感なく接続するのだ。
4つ目の作品・『没文』は、海にそびえる800階の都市ビルで、大魚を釣る男の話を創るために、実際に釣りに行こうとする男のお話。
「物語を創る以外にできることなんて、人間にはないだろうからな……昔はそうでもなかったようだが」
5つ目の作品・『跳文』は、田舎で安定した仕事をしている主人公が、都会に出て作家をしている兄から、ある相談を持ちかけられるお話。
「言葉というのは一種の時空認識のための構造だよ。現実認識、といってもいい。言語が異なれば、異なる現実認識を持つ。現実が異なるんだ」
6つ目の作品・『栽培文』は、言葉の森で生きていた男とその家族、とりわけ言葉を愛してよく使いこなした娘にまつわる、昔話。
で、そいつを使って考えたりするとき、その論理構造はツリーのように、まさに木の幹や枝のように分かれて延びるものだから、枝分かれの道筋いかんで正反対の意思の実をつけることも珍しいことじゃない。
7つ目の作品・『戯文』は、ある時からほとんど偶然、就眠前に父親と雑談テキスト通信をすることが習慣になった、作家のお話。
《もっと基本的で重要なのは、作者の世界観や価値観だよ。それを生んでいる自分という人格を自覚することだ。書くことで、それが顕わになってくるんだ。》
そして8つ目の作品・『乱文』は、最新にして最強、しかし最後の、「言葉使い師」のお話。
Kはわたしであり、わたしである、複数のわたしであり、わたしたちか、Kはわたしであり、わたしが支援を受けながら書いている、二者で一個体であり、ヒトと機械知性の混合体であり、しかしどちらが主であるかはもはや意味がない、――
9つ目の作品・『碑文』も含めて、すべての作品が独立しつつも、互いに関連しあっているような連作集なので。こうしてズラズラっと、ごく簡単にたどってきましたが。

小説を味わうのは、内容というよりもそのスタイル、文体を味わうことなのだ。でなければ、あらすじだけでいい、ということになる。

〈気持ちや考えは、言葉自体には宿ることはないんだ。その組み合わせの中に仕込まれるものなんだ。〉

とのことですので、実際のところは是非、『言壺』本文を読んで、お楽しみください。
芥川賞作家・円城塔先生による巻末解説文に、「「言葉を用いて言葉について書く」ことなどは決してできない。ただ言葉を書くことができるだけである。」とありますが。
まさに言葉を書くという行為によって、言葉にならない複雑な想いや、作者の創作論や、さらには言葉の様々な側面が浮かび上がってくるような、そんな面白い作品でした。