『風立ちぬ』

風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』などなど、数々のヒット作で知られる、宮崎駿(みやざき・はやお)監督の最新作。
(原作・脚本・監督:宮崎駿、作画監督:高坂希太郎、制作:星野康二、スタジオジブリ。)
先々週、7月20日より全国ロードショー中のこの作品、その題名「風立ちぬ」の由来となった、堀辰雄(ほり・たつお)先生の小説『風立ちぬ』とあわせての、感想です。


(残りの21行、ネタバレあり)
まず、小説『風立ちぬ』について。
とある避暑地で偶然出逢い、恋に落ちた主人公とヒロインが、病気(おそらく結核)を患ったヒロインのため、高原のサナトリウムで療養生活を送っていくお話。
療養、とは言え、ヒロインの病状は、サナトリウムへ行く前から、「……私たち、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」と言うほどの重症で。
ですが二人は、細心に細心に、そこでの毎日を過ごしたので、かえっていっそう、生の幸福を感じることもあったのでした。

そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私たちの日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。

そして、こんなささやかなものだけで私たちがこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた。

どうやら小説家らしい主人公は、そんな幸福をもっと確実なものに置き換えたい、それにはっきりした形を与えたいと、その生活を題材に、小説を構想していきますが……。

現在のあるがままの姿?……私はいま何かの物語で読んだ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」という言葉を思い出している。

私がまだはっきりさせることの出来ずにいる私たちの生の側面には、何んとなく私たちのそんな幸福に敵意をもっているようなものが潜んでいるような気もしてならない。……

数年後、二人がはじめて出会った地で暮らす主人公は、彼女との日々を思い出しながら、風の音をときどき気にしながら、リルケの『レクイエム』を読みはじめます。

われわれはその事物を目の前にしていても、
それはここに在るのではない。われわれがそれを知覚すると同時に
その事物をわれわれの存在から反映させているきりなのだ。

現実の日常生活でも、風が立って/風が吹いて初めて、ふと気づく、不意に意識に上ってくる、あるいは否応なく注意を向けさせられる、そんなことがあるように思います。
風に吹かれて揺れ動く木洩れ日だとか、倒れてしまった描きかけの絵だとか、「こういう風のある寒い日でなければ」見られない、「こんな美しい空」だとか……。
小説『風立ちぬ』は、そうした主人公とヒロインの、悲痛なまでに感動的な、しかも物静かな物語ですが。
映画『風立ちぬ』の方は、戦闘機「零戦」の設計者として航空開発史に名を残す、実在の人物・堀越二郎を、小説『風立ちぬ』の主人公に重ね合わせたようなお話で。
そんな完全なフィクションとしての、架空の“堀越二郎”の半生を、リアルに、幻想的に、時にマンガに描いた、全体には美しい映画となっています。
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、生きるのに辛い時代・困難な状況の中で。自らの理想と現実の相剋を感じながら。
限られた時間を、飛行機という夢と妻への愛のために、力を尽くして生きる主人公(と、ヒロイン)の姿に、自分は何度も鼻をかみながら、こっそり?涙をぬぐってました。
堀越二郎堀辰雄に敬意を込めて。“風立ちぬ、いざ生きめやも。”そして“生きねば。”――映画『風立ちぬ』と小説『風立ちぬ』、この機会にいかがでしょうか。