『魍魎の匣』

直木賞受賞の『後巷説百物語』や、アニメ映画化もされた『豆富小僧』などでも知られる、京極夏彦(きょうごく・なつひこ)先生の、通称「百鬼夜行」シリーズの第2作。
本作は、1995年発行の講談社ノベルス版を皮切りに、文庫版、ハードカバー版など、様々なバージョンの物が出ていますが、今回読んだのは、2012年発行の電子書籍版です。
なお、文庫版『魍魎の匣』に関しては、ゲーム『NEWラブプラス』とコラボした、『NEWラブプラス』オリジナルカバーバージョンも発売されていたようです。
つい先日、その『ラブプラス』シリーズの最新作・『NEWラブプラス+』の2014年春発売が発表されて、そう言えば、と思ってこの機会に感想を。


(残りの24行、ネタバレあり)

中禅寺秋彦:「オカルトの本義が謎や神秘でなく〈隠されたこと〉であったことには大きな意味があるのだ」

中禅寺秋彦:「隠されているからこそ意味のあるもの――それこそがオカルトだ。」

“暗箱(ブラックボックス)”を前にして、情報を意識的に細切れに・意図的に順序を変えて公開されると、人は時に、簡単に勘違いして、騙されてしまう――。
探偵小説・推理小説の常套手段ですが、それは何も、小説に限った話ではないようです。
深夜の駅のプラットホームで起きた転落事故を手始めに、次々と発生する不可解な難事件の数々を、京極堂こと中禅寺秋彦が、友人たちと解明していくお話。
本作は2008年にTVアニメ化もされていて、自分も楽しく見てたのですが。かなり込み入った物語でもあり、週1回の飛び飛びの放送では、記憶が繋がらない部分も残ってて。
いつか原作をと思って、この機会に読んでみたのですが。やはりアニメのビジュアルとあらすじが頭にあると、ずいぶん読みやすく、作品自体の面白さを再確認できました。
さて先ほど、事件を解明、などと書きましたが、「この世にはね、不思議なことなど何ひとつないのだよ」と言うわりに、京極堂は、真相解明・探偵行為には消極的です。
とりわけ、犯罪究明においての行き過ぎた動機の詮索・動機至上主義は嫌っていて、「動機とは世間を納得させるためにあるだけのものに過ぎない」とまで言います。
世間の人間は、犯罪者の特殊な環境・特殊な精神状態を強調することで、犯罪を自分達の日常から切り離して、犯罪者を非日常の世界へと追い遣ってしまいたいのだ、と。

関口巽:「だがな京極堂、それでは社会の秩序は保てない。犯罪行為と云うのは行為自体が社会的に認められないと云う、そればかりで成り立っているのではないのじゃないか?」

関口巽:「道徳だとか倫理だとか、そう云う目に見えぬ部分をも対象にしなければいけないのではないのか? 動機を無視するなら情状酌量の余地はなくなってしまう」

中禅寺秋彦:「道徳観や倫理観まで法律で規制してしまってはそれは単なる恐怖政治だ。思想や信仰は法律に対して自由であるべきなんだろう? 法律は行為に対してのみ有効なのだ。」

中禅寺秋彦:「それに考えただけで罰せられるなら殆どの人間は罪人になってしまう。動機だけなら誰にだってあるのだ。いや、殺人の計画だって皆立てている。実行しないだけだ。」

京極堂によれば、動機というのは後から訊かれて考えるもので、犯罪者自身が先ず日常に帰るため、自分を納得させる理由であり、真偽など本人にだって判りはしない、と。
なぜなら犯罪は、社会条件と環境条件と、そして通り物みたいな狂おしい瞬間の心の振幅で成立するもので、犯罪者はたまたまそれと出合ってしまっただけなのだ、と。
とは言えそんな京極堂も、現在進行中の事件で新たな被害者が出ると、既に僕等は関わってしまったのだからと、ついに自ら行動を開始します。
箱に入ったバラバラ死体。巨大な箱のような研究所。『匣の中の娘』。箱に取り憑かれた木工職人。箱の中の擬似現実。箱を持った幽霊。ご神体の箱。人体と云う箱――。
語ることによって“暗箱(ブラックボックス)”の内なる現実は解き放たれて、物語になる。そしてすべての物語に終わりをもたらすため、京極堂の魍魎退治が始まります。

関口巽:「き、京極堂、も、魍魎とは、いったい何だ」

中禅寺秋彦:「魍魎とはな関口。境界だ。軽はずみに近寄ると向こう側へ引き摺り込まれるぞ」

魅力的な登場人物たちとその物語に、衒学的な怪談・ホラー要素をちりばめて、でもネタ的には実はかなりSFな、第49回日本推理作家協会賞・長編部門受賞の超絶ミステリ。
そう言えば『NEWラブプラス』とコラボしたその他の作品、『赤毛のアン』『ぼくのメジャースプーン』同様、愛にまつわる物語でもあります。かなり特殊ですけど(笑)。
魍魎の匣』は、原作小説とTVアニメ以外にも、志水アキ先生によるコミック版があり、そちらもかなり評判がいいようなので、いずれまた読んでみたいと思います。